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卒業式告辞
2021年度卒業式告辞
京都でも桜が開花しました。春うららか、という言葉が似つかわしい一日になりました。
本日、この晴れの日、412名の方が卒業、修了を迎えられます。教育学部卒業生304名、大学院教育学研究科修了生43名、大学院連合教職実践研究科修了生48名、特別支援教育特別専攻科修了生16名、国費外国人留学生1名。本学においてみなさんがなされた努力と研鑽を、京都教育大学を代表して讃えたいと思います。また、ご家族をはじめ、これまで永くみなさんを支えてこられた方々に、この場をお借りして、改めて深く感謝申し上げます。
一昨年の今頃から、忌まわしい感染症がまたたく間に世界中に広がり、社会全般に暗い影を落としました。すべての大学生が生活や勉学において多大な不便や不利益を被りました。卒業を控えたみなさんにも、卒業論文執筆などで少なからぬ支障が生じたであろうと推察します。また、本日ご出席のみなさんのなかには、ご家族が、知人が、またご自身が、罹患したり濃厚接触者になられたりした方がおられることと存じます。多くの試練を乗り越え、ご卒業、ご修了の日を迎えられたことに心よりの敬意を表します。
新型コロナウイルス感染症などの苦難を克服し、より良い未来を構築するために必要なものとして、このところ「利他」という概念がさかんに論じられています。「利他主義」altruismは、いわば「利己主義」egoismを逆転させた考え方です。自分には不利益になるが仲間には利益をもたらす行動をとる。つまり「他を利する」ことを、「利他」と呼びます。このやりきれない社会を、未来に向けて作り直していくことを思うとき、「利他」の考え方は見過ごせないものになっています。
例えば、阪神・淡路大震災を経験した神戸の人たちが、東日本大震災で被災した東北の人々を支援したのは、まちがいなく利他的な行為でした。自己と他者の隔たりを打ち消し、他人の事を自分の事として、神戸市民は行動したのでした。一方で、ゆとりのある人が貧しい知人の生活費を援助するといった、他者を自己と異質な者とみなして施す「利他」もあります。こうした優劣関係に基づく「利他」的行為の恩恵にあずかった人は、相手の親切を負担に感じたり、自らを卑下する気持ちになったりするかもしれません。健常者が好意のつもりで障がい者の世話を焼いて「有難迷惑」と感じられたり、結果的に障がい者の自立の機会を損ねたりする例もあると聞きます。こうした場合、「相手のためになる」という本来の意味で、それを「利他」とは呼べません。
自己と他者の違いを異質性でなく、多様性として捉えることはできないでしょうか。自己と他者に優劣をつけず、同等の資格を備えた、多様性を持つ存在と見ることはできないでしょうか。
例えば、新型コロナウイルス感染者を差別しないで受け入れよう、という言い方をするとき、わたしたちは健康な自分を基準に、感染者を異質な他者として捉えています。しかし、わたしたちも検査を受けていないだけで感染しているかもしれません(それはこの異様な感染拡大の中で、実際にわたしたちが感じたことでした)。感染が確認された人もされていない人もいて、感染が確認された人の中にも様々な程度や様々な症状の人がいます。自分もそうした多様な状況の一部にすぎない――フラットな見方でそのように感じて、多様性の中に身を置いて世界を視ることはできないでしょうか。
京都教育大学は教員を養成しています。教職は子どもの幸せのために資することを使命とする、まさに利他的な仕事です。ところが、教師と生徒は同等の多様な存在ではありません。《教える―教えられる》という優劣関係の中で、教師は生徒を他者とみなして、「利他的」と自らが考える職務を遂行しています。しかし、それはほんとうに「利他的」な振る舞いでしょうか。
このことをわたしが自覚したのは、鷲田清一さんが『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』のなかで紹介されていた、発達心理学者の浜田寿美男氏の主張に触れたときでした――ふつう訊ねるというのは、じぶんが知らないことを教えてほしいから訊ねる。ところが、教師はじぶんの知っていることを生徒に訊く。験された生徒は、訊かれたことに応対するというより、当たるか当たらないかというかたちで正解を意識する。両者の間には知りたい、伝えたいというやみがたい気持ちがない。「ひととひととの関係が、験す/当てるという(「信頼」をいったん停止した)関係にすりかえられてしまっている。」このように述べた後、文章はこう締めくくられています。「教師はもう、じぶんが知っていることを生徒には訊かないということである。」(同書、p. 259)
だからと言って、むろん、教室で発問をやめるわけにはいきません。ただ、浜田氏の指摘でわたしの心に深く刺さったのは、教師は自分が答えを知っていることを前提にして、生徒を験しているのだということでした。そこには優劣関係はあっても、多様な同等の関係は存在しません。そもそも教師は本当に答えを知っているのでしょうか。生徒の答えを不正解だと却下した後、しばらく経ってから、「あれも正解だったのではないか」と思い返した経験は、教師なら誰しもあることでしょう。
いわゆる正解のない問いの場合もあります。例えば、夏休み明けの教室で、子どもたちに楽しかった夏の思い出を訊くとしましょう。教師はありそうな答えを幾つか想定しているかもしれません。「家族旅行が楽しかった。」もし子どもがそう答えたら、教師はふんふんと頷き、「よかったね」と言うかもしれません。はたしてそのとき教師は、その子が何を、なぜ、どう楽しいと感じたかを、どれだけ強く知りたいと思っているでしょうか。
利他というのは、他人を異質な他者として隔てず、自らと同列の多様な存在として付き合い、先入観なしに「聴く」ことから始まると、わたしは考えます。じつは、それはみなさんが、大学で不登校やいじめのことに思いを巡らされた折に、また、特別支援教育のありようや児童の貧困の問題について考えられた折に、すでに気づかれていることではないでしょうか。そうだとすれば、教員になる人だけでなく、その他の分野に進まれる人も、「利他」の考えを、その核心においてすでにつかまれているのではないか。わたしはそう考えています。今日を契機として、みなさんがそのことを心に留め、これからの未来を担ってくださることを、学長として切望します。
いまみなさんは学業を全うされ、4月からは新しい環境で、これからの人生の種を蒔こうとされています。俳句に「花種蒔く」という春の季語があります。害をなす霜が降りなくなった春分の頃、花の種を柔らかな地面に蒔いてやります。花種を蒔いても、すぐには何の変化も起こりません。辛抱強く待つうち、双葉が顔を出し、茎が太くなり、夏の陽射しに青々とした葉が育ち、秋にうつくしい花を咲かせます。大学で学んだ日々に誇りをもって、新しい土地で土を耕し、夢を実現するための種を蒔いてください。焦ることはありません。必ず素晴らしい花が咲きます。
今日、京都教育大学は大いなる期待をこめてみなさんを送り出します。
みなさんの新たな門出を心よりお祝い申し上げます。
令和4年3月25日
京都教育大学長 太田 耕人(付記)引用した鷲田清一『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』(ちくま学芸文庫、筑摩書房、2015年)の他、とくに第5段落において、伊藤亜紗「『うつわ』的利他―ケアの現場から」(伊藤亜紗・編『「利他」とは何か』集英社新書、集英社、2021年、pp.17-63)を参考にさせていただきました。
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