1.教科指導方針について
「現代」(およびその始原である「近代」)における諸事象について論じられた文章を学習することにより,自己を取り巻く世界を構造的・体系的に分析・把握するための,論理的思考力ならびに読解力の育成に努め,自己の主張を明確かつ論理的に展開する力を身に付けさせるという指導目標に鑑み,国語科の授業を方法・内容の両面から検証し実践を試みた。
①古典分野における取り組み
思考力および読解力を向上させるために,論理を展開する手法を自家薬籠中のものとさせたい。
一般に科学の方法には,事実や実験に基づき帰納的に一般的な定理を求める手法と,定理を用いて演繹的に問題を解決するという手法とがあげられる。国語科の学習において主として用いられるのは後者である。ここでいう定理とはたとえば文法(もちろん文法は帰納的に求められた最大公約数的な定理に過ぎず,しかも常に変化・流動するダイナミックなものであるが)であり,問題解決とは本文解釈である。本文解釈とは,まず最初の段階において,本文の意味内容の正確かつ客観的な把握であり,文法という言葉の規則にしたがって演繹的におこなうもので,これはほとんど科学の範疇にある。さらに国語科の授業でたち現れる本文解釈は,この内容理解・意味把握のうえに読者(生徒と教員)の知識や感性が紡ぎだす,その都度に新しい読みの世界である。
今回,定理(文法)を本文解釈に意識的に活かしてゆく授業を古典分野で試みた。「現代」及び「近代」の評論に限らず,普遍的な「方法」は分野を問わず通用するものであろうし,文法を意識する取り組みは,むしろそれを扱いやすい古典分野からはじめて現代文の分野に資する所を求めようとするのである。
実践例
本校入学を希望する附属中学校の生徒を対象に,彼らから現れる疑問を,古典文法の知識によって解決し,新しい解釈を生みだすという学問的な体験を,意識的にしてもらう試みをおこなった。高校一年生の教材から『竹取物語(かぐや姫誕生)』(筑摩書房『精選国語総合・古典編』)を選び,中学生に提示した。これは多くの中学校1年生の教科書にも,その前半部分が採られている文章であり,今回参加した中学生たちには,その部分は既習のものである。
今は昔,竹取の翁といふ者ありけり。野山にまじりて竹を取りつつ,よろづのことに使ひけり。名をば,さぬきの造となむ言ひける。その竹の中に,もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて,寄りて見るに,筒の中光りたり。それを見れば,三寸ばかりなる人,いとうつくしうてゐたり。翁言ふやう,「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になりたまふべき人なめり。」とて手にうち入れて,家へ持ちて来ぬ。妻の嫗にあづけて養はす。うつくしきこと,かぎりなし。いとをさなければ,籠に入れて養ふ。
竹取の翁,竹を取るに,この子を見つけて後に竹取るに,節を隔てて,よごとに,黄金ある竹を見つくること重なりぬ。かくて,翁,やうやう豊かになりゆく。
この児,養ふほどに,すくすくと大きになりまさる。三月ばかりになるほどに,よきほどなる人になりぬれば,髪上げなどとかくして髪上げさせ,裳着す。帳の内よりも出ださず,いつき養ふ。この児のかたちのきよらなること世になく,屋の内は暗き所なく光満ちたり。翁,心地悪しく苦しき時も,この子を見れば苦しきこともやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。
翁,竹を取ること,久しくなりぬ。勢ひ猛の者になりにけり。この子いと大きになりぬれば,名を,御室戸斎部の秋田を呼びてつけさす。秋田,なよ竹のかぐや姫とつけつ。このほど,三日,うち上げ遊ぶ。よろづの遊びをぞしける。男はうけきらはず呼び集へて,いとかしこく遊ぶ。世界の男,あてなるも,賤しきも,「いかで,このかぐや姫を得てしがな,見てしがな。」と,音に聞き,愛でて惑ふ。
この本文の内容について,生徒から疑問に思う点を募ったところ,「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて知りぬ。子になりたまふべき人なめり。」という翁の台詞を取り上げるものが多かった。すなわち,「知りぬ」とは何を知ったのか。また,「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはする」ことが,どうして「子になりたまふべき人なめり」と考える根拠になるのかと言う問題が提出されたわけである。これらを「文法的に(=定理をもとに)」考え,それを読みの広がりに生かしたい。
「知りぬ」について,何を知ったのかを問えば,たとえば大学生であっても,「三寸ばかりなる人が竹の中にいらっしゃること」のような答えが返ってくることがある。中学生ならばなおさらだ。「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはするにて」は「知りぬ」の理由に当たるのではないかと指摘すれば,「にて」は格助詞でここでは理由を表すなどという説明をするまでもなく,先の答えの誤りは容易に納得されて,「子になりたまふべき人なめり」の部分が「知りぬ」の内容であると答えてくる。ただその理由については,翁のこの発言(会話文)の中で,残りはこれしかないからという発想であることが多く,助動詞「めり」を根拠に挙げる生徒はあまりいないだろう。そこで,推定の助動詞「めり」を説明すれば,生徒はこの翁の発言の構造を理解し,先の問いに充分対応できるのではないか。つまり,
・「めり」の文法的意味は「推定(~ヨウダ)」であること。
・「推定」という用語の意味(「推量」との違い)は,「根拠のある推量」であること。
・特に「めり」は,「視覚的な根拠」による場合が基本であること。
(これらは「単なる文法説明」である。)
を示したうえで,
「子になりたまふべき人なめり」と推定する根拠は何か。
を問うことから論理を展開させるのでる。
「翁自身が毎朝毎夕見る竹の中に,この人がいらっしゃる(「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはする」)」のを見たことを根拠に「私の子におなりになるはずの人であるようだ(「子になりたまふべき人なめり」)」と推定していることは容易にわかるはず。したがって「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはする」「ことによって(「にて」)」知った(「知りぬ」)ことは,当然,「子になりたまふべき人なめり」ということであると理解されるだろう。
このような取り上げ方ならば,助動詞「めり」の「文法説明」を「定理」として演繹的に読みに生かすことが可能である。
さて,この翁の発言の構造がわかったとして,次に来る問題は,「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはする」ことが,どうして「子になりたまふべき人なめり」と考える根拠になるのかということである。「翁は竹をいつも見ていたから…,竹に親しみを感じていたから?」と自信なさげに答える生徒の顔が目に浮かぶ。この事態を避けるために,冒頭の第二文に伏線を張っておきたいところだ。
野山にまじりて竹を取りつつ,よろづのことに使ひけり。
この一文,生徒に口語訳を求めると,「野山に分け入って,竹を取って,多くのことに使っていた」のように,「つつ」を全く無視,あるいは回避する者が圧倒的に多い。ここで「つつ」の「単なる文法説明」が必要である。つまり,
接続助詞「つつ」は,反復(繰リ返シ~シテハ,)・継続(~シ続ケ,)を表すのが基本であること。
をはっきり示しておくべきなのだ。このことから,翁が竹を取るという行為は,ただ一度きりのことではなく,繰り返し何度も為されていたこと,言わば翁の「日常」であり,その行為の現場である竹の群生する野山は,翁のテリトリーであることを押さえるのは,無理のない展開であろう。
さらに,「よろづのことに使ひけり」に関して,具体的に何を作ったのかを問いかける指導案を示す生徒がいれば,先ほどの「つつ」からの展開と併せて,「翁像」を作っておくことを薦めたい。つまり,この翁は「籠」やら「笊」やら「箱」やら様々なタケカンムリの物ものを作り出す職人である。そしてこのバンブーマスター(?)の生活の場は竹林であり,その生業を支えるものは竹に他ならない。竹は,翁の「日常生活(テリトリー)」の中にある。「われ,朝ごと夕ごとに見る竹の中におはする」ことが「子になりたまふべき人なめり」の根拠となる理由は,ここにあるのだ。
②現代文分野における取り組み(Ⅰ)
科学万能の物の見方に対し,科学という知の枠組みも時代によりシフトするものだという,科学を相対化する言説がよくされている。しかし高校生においてはあまり一般的な考え方ではない。また,人は,その属する文化の発想からあまり自由ではなく,幼少より身に着けてきたナイーヴな感覚や価値観にどうしても縛られてしまうものだ。
今回は健全な懐疑の心を持ち,調べえた事実をもとに,与えられたテクストに新しい光を当てる試みを,1年生の現代文の授業で行ってみた。
実践例
アルフォンス・ドーデ『最後の授業』を通読し,まずは素朴な感想を求める。その際,使用したワークシート(Ⅰ)の項目を挙げる。
1.『さいごの授業』はどのような物語ですか。「~が~をする物語」または「~が~になる物語」のような文を3つ以上作りなさい。(例えば『走れメロス』なら,「メロスが約束を守る物語」「人と人とが信頼を回復する物語」「メロスが一家の主人として自立する物語」等。)
2.『さいごの授業』を読んで疑問に思った点を挙げなさい 。
3.この物語において,
a)フランス語とは何か。
b)アメル先生とは何か。
4.この物語の感想を書きなさい。
5.あなたが小学校の先生や小学生の親であるとしたら,この物語を通じて児童に何を教えようと思いますか。
想像以上に生徒はナイーヴな感想を寄せた。フランツと同様の反省をし,日々を大切に過ごしたいというようなものまであったが,まず間違いなく,『さいごの授業』とは「抑圧に負けず自国の言葉(誇り)を守ろうとする物語」であり,アメル先生は「フランスの誇り」の伝道師であると読むことができた。その上で自身が先生や親であったら,子どもたちに自国の文化を大切に教えたいと書いてきた。
疑問点として,「アメル先生はなぜアルザスを去らねばならないのか」というところを挙げた者が二割弱,「フランツたちが母国語であるはずのフランス語を話すことも書くこともできないのはなぜか」という者が1割程度いた。本授業の狙いとするところである。この点に関して,次のような項目のワークシート(Ⅱ)を配布し,PC教室を利用し,webを検索して必要な情報を得て,自身でまとめ,提出させた。
A.
①近代以降のアルザスの言語状況について調べ ,
②アルザスの人々にとってフランス語はどのようなものであるといえるか,述べなさい。また,
③そのような観点から見たとき,アメル先生とはどのようなものであると考えられるか,記しなさい。
B.次の語句について調べ,「社会的な言語」という観点からまとめなさい。
①罰札
②フランツ・ファノン
(Bの二事項は,この後,国民国家と言語をテーマとする評論を読む予定であり,その予習として設定した。)
生徒はアルザス地方の言語状況については,まず正確な知識を得たようである。アルザス語はドイツ語に近い一地方語であること。フランス革命語の言語統一政策以降,アルザスの言語は独仏の勢力の伸張によって振幅していたこと。『最後の授業』は普仏戦争の結果を受けた時代を設定しているであろうこと。
こうした目で『最後の授業』を見たとき,②・③の問題には,初読時とはまったく異なる見え方をしたものが続出した。たとえば,
ワークシート(Ⅰ)
3.a 自分自身をフランス人として保つもの。
ワークシート(Ⅱ)
② 長い間ドイツとフランスとの間でアルザス・ロレーヌ地方は取り合いを繰り返されていた土地で,この話ではフランスが占領していたが,以前は長時間ドイツに占領されていて,地元の人はドイツ語を話していた(注:事実誤認)。なので,フランス語を母国語として習得するまでには至っていなかった?
このような生徒の記述から彼らがおそらくは漠然と感じている次のような内容を明確に言語化する指導が必要と考えた。
①言語は文化であり,言語により世界の見え方も異なる。(→例えば,鈴木孝夫『ことばと文化』などへの発展が考えられる。)
②言語=文化はその人間の生を規定する。(→高史明『生きることの意味』における在日一世の父との文化的葛藤やF・ファノン『白い仮面・黒い皮膚』に見えるアイデンティティの危機)」
さらに,
③国民国家を想像の共同体と見る視点が現在支配的である。(田中克彦の著作等からテキストは発掘できよう。)
という知識を知らしめる発展学習もおこないたいと考えた。
そのような意味から,この後,蓮実重彦『反・日本語論』から『最後の授業』受容に関する箇所を,対比・言い換え,譲歩・主張の構造等を意識しながら読む評論文読解の授業をおこなった。
本校SSHの取り組みの中で,素朴な感動を大切にしながらも,健康な疑いを持ち,事実に基づく思考を心がける態度を涵養したい。
③現代文分野における取り組み(Ⅱ)
1年国語総合現代文の授業において,「近代」評論の第一人者である山崎正和の「水の東西」を用い,以下の通り学習を進めた。
・論理思考の基盤となる二項対立の視点から本文を読み解く。具体的には,本文中から東西両文明を特徴付ける表現を抜き出し,表形式にして対比的に書き出してみる。
・書き出された表現を,対照的なキーワードで整理し,東西の特徴を明確化する。具体的には,自然・人工,時間・空間,受動・能動,静寂・喧噪,無形・有形,流出・噴出,等々。
・「水」を対象とした本文において,東西両文明の象徴として用いられた「鹿おどし(滝)」と「噴水」に,上記の対立する二項をあてはめて考察する。
・洋の東西において確認した二項対立的概念を演繹するため,実際に日本式庭園(和風の庭)西洋式庭園(洋風の庭)を訪れ,それぞれに見られる特徴をレポートにまとめる。その際,具体的に項目を設定し比較対照が明瞭になるよう心掛けるようにアドバイスした。なお,このレポートは夏期休業中の課題として設定した。(レポートの具体例については,「1年生徒作成レポート『水の東西―日本庭園と西洋庭園』を参照。)