*司馬遼太郎とは?*

司馬遼太郎は大正十二年(関東大震災の年)八月七日、大阪の薬種問屋の次男として生まれた。本名は福田定一という。

生まれつき虚弱だったので奈良県北葛城郡今市の仲川氏方に預けられて育った。母親の実家がニ上山の南の竹内峠を大和盆地に下った村にあったので、子供のころ、よく、この日本最古の街道で遊んだ。このあたりは、弥生式土器や、黒いサヌカイトの石鏃などが出土して、村の子供たちはそれをいっぱい持っていた。それを駄菓子と交換して集めたりした。

戦後は十五年間、ジャーナリストとしてすごした。はじめのうち七、八年は新聞社のの京都支局にいて、大学とかお寺とか、いかにも京都的な場所を受け持たされた。この間に、西本願寺虎の間(伏見城の遺構)粟田口の青蓮院門跡の叢華殿といった社寺史跡の静かな場所で寝転がって史伝、小説類を読みふけった。高校時代から、文学に興味を持ち始めていたのである。

この頃から漠然とながら三十になったら新聞社を辞めて小説を書きたいと思いはじめていた。

昭和三十年、ちょうどその頃、彼の新聞に「文壇短信」というコラムを書いていた寺内大吉が、大阪にやってきて、一夕歓談するうちに「あんた小説書けや」と言った。

寺内は、東京へ帰ると、あらゆる鑑賞小説の応募規程を送ってきた。そのなかで一番早い締切りが、「講談倶楽部賞」だった。彼はそれに「ペルシャの幻術師」という六十枚の作品を二晩で書き上げて送った。それが「第六回講談倶楽部賞」に見事に受賞した。このときはじめて、「司馬遼太郎」というい名前をつかったのだが、それは本名で出すのが恥ずかしくて、好きな「史記」の著者の名にあやかって、<司馬>に遼(はるか)に及ばぬという意味でつけたペンネームであった。

入選の電報が届いたその日に、偶然にも彼は産経新聞大阪文化部次長に昇進した。翌年から、寺内大吉と同人雑誌「近代説話」をはじめた。彼は新聞の仕事のかたわら、もりもりと書いた。

昭和三四年、前年から「中外日報」という日刊宗教紙に連載された「梟のいる都城」という作品が、講談社から「梟の城」という題で出版された。これが昭和三四年第四二回植木賞になった。彼はまたこの時、偶然に文化部長に昇進した。この時はじめて、新聞社の連中は彼が、植木受賞作家であることを知って驚嘆した。こうして彼は、順風満帆、文壇に洋々と船出したのである。