= = = 伏見周辺の伝統産業と名所 = = =

伏見周辺で現在も続けられている代表的な伝統産業や名所を紹介します。




伏見酒

 附属幼稚園・桃山小学校・桃山中学校の付近には多くの酒倉が見られます。
 伏見区では、今でも酒造が盛んです。
 伏見は酒蔵の町、酒の町とも呼ばれました。
 かって伏見は、「伏水」と書かれていたほど、豊かな地下水に恵まれたところです。
 この伏流水が酒づくりの伝統を育てました。
 歴史的にみると、伏見で酒造が本格的に開始されたのは、江戸初期からと言われています。
 寛永二年(1625年)伏見奉行であった小堀遠州が酒造米を開発し、明暦三年(1657年)に初めて酒造株が許可され、約80軒ほどが加入して酒造屋仲間を組織しました。
 このときには、約1万5600石余を醸造しています。
 以後、造酒高は、幕府の意向で左右されたようです。
 明治維新の鳥羽・伏見の戦いでは町の大半が消失し、生産高も1800石となってしまいましたが、後に回復し、明治20年代には、3万2千石以上に増加しました。
 明治22年には国鉄東海道線が開通しました。このことは、伏見の酒造業にとって一つの大きな出来ごとでした。
 この東海道線によって東京方面へ進出し、伏見の酒が全国的に有名になったからです。
 また、酒造業に携わる人々は技術や品質の向上につとめました。
 そして、明治44年の全国清酒品評会では、伏見から出品の23点が入賞し、伏見酒の名を全国に広めました。
 現在、伏見酒の銘柄は50以上におよびます。


伏見人形

 桃山時代末・江戸初期頃から伏見で作り始めたと言われている土人形で,深草人形、稲荷人形とも呼ばれています。
 創始した人物は諸説あり,関ヶ原の戦いの後,深草に住んだ人形屋幸右衛門が始めたとする説や,辻井房二郎、焼塩屋権兵衛が始めた説などがあります。
 この人形は伏見城下町や伏見稲荷大社の土産品として全国に広まり,各地の人形生産に影響を与えました。
 製法は、粘土で型取りをし、それを窯で焼いた後、胡粉・岩絵具で彩色します。
 型は、七福神、十二支、飾馬、桃太郎、武者など、現在約800種が残っています。
 明治には20数件の窯元があったようですが、現在は残念ながら,この伝統技術を残しているのは1軒だけになっています。


伏見桃山城

 もともとは,伏見城と呼ばれ,豊臣秀吉によって築かれました。
 関ヶ原の合戦の前哨戦により落城消失し,徳川家康・秀忠によって再興されましたが,元和9年(1623年)に廃城となり,施設は,二条城,大坂城,福山城などへ移築されました。
 そして跡地に桃が植えられたことから,このあたりが桃山と呼ばれるようになり,昭和39年(1969年)になって元の地よりやや北に天守閣と遊園地が作られ「伏見桃山城」と呼ばれるようになりました。
 これは元の地のすぐ南側に明治天皇陵があるために,元の地よりやや北にずらして再建したのだそうです。



寺田屋

 幕末期に三十石船で栄えた船宿で,薩摩藩の定宿でした。
 文久2年(1862年)4月23日に,倒幕急進派の有馬新七らが関白と所司代を襲うべく寺田屋に集結し,これを阻止するために駆けつけた同藩の藩士8名と同士討ちとなった寺田屋事件は大変有名です。
 2階には,坂本龍馬が定宿にした「梅の間」があり,柱には,龍馬が襲撃された時についたとされる刀傷やピストルの弾痕も残っており,今でも宿泊することができます。
 また,梅の間の横の裏階段は,龍馬に急を告げるために,龍馬の恋人のお竜が,風呂を飛び出して裸で駈け上ったというエピソードも残っており,歴史のロマンを感じることができる宿です。
 庭には,龍馬の像と,薩摩九烈士の慰霊碑もあります。


御香宮神社

 「日本名水100選」の第1号に選ばれた御香水が湧くことで有名な神社で,水が湧き出している本殿の左手前は,水を汲みに来る人が絶えません。
 貞観4年(862年)に,この地に清泉が湧き出し,これを飲むとどんな病人も平癒したことから,この香水を祀り,御香宮と称した説をはじめ,始まりには諸説があるようです。
 文禄年間には,豊臣秀吉が伏見城を造営するにあたって,鬼門の守護神としてこの社を大亀谷に移したが,慶長10年(1605年)に徳川家康によって,もとあった現在の場所に戻されたそうです。
 その後,徳川御三家は,その藩祖が伏見で生まれたため,当社を産土神として崇敬するようになったようです。
 伏見城の大手門を移した表門,華麗な彫刻が施されている本殿などが,重要文化財に指定されています。
 祭礼は,例大祭(4月17日),芽ノ輪(ちのわ)の神事(7月31日),伏見祭(10月10日)などがあり,多数の参拝者で賑わいます。